日本の食文化を豊かにした粉食文化

日本の食生活(文化)は、先祖が稲作農耕を初めて以来 米を粒食してきました。日本に杵と臼が伝わってきて脱穀を可能にし、製粉する事を覚え、豊かな食生活とともに粉食文化が発展してきました。
蕎麦の『ふるさと』
蕎麦は大陸から日本に伝播されました。
四つのルートが考えられています。
@揚子江流域から北九州
A朝鮮半島を経て出雲
Bウラジオストックから新潟
Cシベリア半島−カラフト−北海道
◆天平時代のハイテクの技術「碾磑(てんがい)」
天平時代は聖徳太子が内政、外交に活躍された時代(710年〜794年)です。碾磑とは、穀物の外皮をとる石臼で、これが改良 工夫され製粉の出来る石臼に発展しました。今日で言うハイテク技術であったわけです。聖徳太子の影響は四国(讃岐 伊予)にもおよびました。奈良時代には「そうめん」が生まれ、その発祥の地が三輪の里です。今日伝えられる三輪そうめんの源流です。この時代の麺は紙のこよりのように細く手でのばしたもので「むぎなわ」と呼ばれていました。
その後 拉麺、切麺、押麺と形式が工夫されていくのです。
日本における臼の発達
800年代の挽臼にはじまり、薬研、粉挽臼、茶磨と改良が進み、1350年代には「すりばち」が実用され、さらに1580年代に入ると鉱山で鉱石を粉砕する為の、鉱山臼へと発達し、1700年以降になると町人の間にも粉挽臼が普及し、それまで粒でしか食べる事が出来なかったものが、粉にする事により、食品の数が急速に増え、食べることの楽しみを人々が知った訳です。
挽臼が発展させた蕎麦
挽臼はさらに改良がすすみ、目的にあった粉を挽けるようになり、鎌倉時代には公家、朝廷、寺社、貴族の保護を受け、現代の「そうめん」のような麺を作っていた事も知られております。文献に依れば室町時代(1436年)蕎麦で年貢を納めています。
挽臼が発展させた蕎麦 [2]
天下人秀吉の小田原攻略の折に、諸大名が「蕎麦がき」でもてなされたと言う記録がのこっております。『裏千家茶道教科教養偏』千宗室監修には元和8年(1622年)松屋久好茶会(12月4日)のおりに、日野(近江)饂飩(うどん)蕎麦切りを出したと記録されています。
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