江戸開府と蕎麦

◆江戸開府と蕎麦
そば切りが、今日のように発展したのは江戸開府と云う条件をぬきには考えられません。江戸新都市建設のために多数の職人、労働者が集められ、安価で簡単に提供できた食物であったこと。また、なによりも江戸庶民の嗜好に叶っていたという事です。それは大阪城築城のおりでも同じことが言えます。砂場という名称は、築城の時砂場という材料置き場にあった所から砂場という名称が名づけられたと言われている。
◆江戸中期の蕎麦
1747年・寺方蕎麦−浅草称院内道光庵
1751年・庶民の蕎麦−浅草馬道伊勢屋・正直蕎麦
1789年・大名の蕎麦−保科家江戸屋敷内・麻布十番長屋
     麻布永坂信州更科蕎麦処布屋太兵衛
1743年・寛保3年、江戸の蕎麦製粉業者「藤兵衛店」が次のような看板を出した。『春よりあく抜き蕎麦相始申候儀に御座候』この時から、蕎麦粉も芯だけの粉(御膳粉)、粒を丸ごと挽いた粉(一本挽)と挽き分けが行われ、食べ方も嗜好に合わせて蕎麦を打つようになってきました。
蕎麦と海苔は、切っても切れない関係にあり、山本山海苔・1703年山形屋海苔・1706年が創業し今日に至っているのは、蕎麦とのかかわりがないとは云えないでしょう。このころの品書きに、かき揚げ、花巻、月見、鴨南蛮、ぶっかけ(かけ)と現在の蕎麦屋のメニューの主軸になっているものが記録されております。
◆江戸後期の蕎麦
化政時代(1819年〜)と呼ばれる文化文政は、あらゆる芸事が盛んになり、食文化も大いに発展しました。蕎麦も「手打ち」が工夫され、趣味としての蕎麦が生まれ楽しめるようになったのです。その一面で蕎麦のもつ簡便さが常食として庶民の間に定着した時期でもあります。『手打蕎麦は』−生粉打ち趣味、『二八蕎麦』−実用向きと分かれ、品書きに、かしわ(とり)玉子とじ(卵)等も顔をだしてきます。

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